中国ドラマ『瓔珞<エイラク>』『如懿伝』の時代背景:清朝とは?

瓔珞(えいらく)と如懿伝(にょいでん)
瓔珞(えいらく)と如懿伝(にょいでん)

中国の時代劇ドラマ『如懿伝』や『瓔珞<エイラク>』はご覧になりましたでしょうか?
どちらも中国の清朝を舞台にしたドラマです。
実在した人物をモデルにそれぞれ違う人物を主役に、違った視点から清朝の時代を描いています。

『如懿伝 〜紫禁城に散る宿命の王妃〜』
『瓔珞<エイラク>〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜』

特に『瓔珞<エイラク>〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜』は、
女官から皇后へ上り詰めた実在した女性を元に描いた中国版「大奥」として、
「半沢直樹」のような反撃が面白いと評価されています。

中国版エミー賞と言われる国劇盛典4冠達成。
アメリカ、カナダなど90か国以上で放送され、
2018年世界で最もググられた中国ドラマです。(中国本土ではGoogleは使えないのに)

今回は清朝の時代背景を、ドラマの時代になるまで~ドラマの時代のその後の史実を順番に解説します。
・ドラマの前の時代
・ドラマの時代
・ドラマの後の時代

ドラマの時代(清朝)の時代背景

ドラマの王朝は清朝が舞台です。

清朝は、1644年~1912年の268年間つづきました。
日本では、江戸時代(1603~1868年=265年)から明治時代(1868年~1912年=45年)にかけての時代になります。
中国の清朝と日本の江戸時代は、ほぼ同時期に265年近くも長く続いたということでよく比較されます。

清朝は、中国最後の王朝で、滅亡後は中国は皇帝制を廃止し中華民国になりました。

ドラマの時代になるまで(清朝以前)

明王朝の滅亡~清朝の成立

中国清朝の前は明王朝の時代でした。
明王朝の末期は、モンゴルからの侵攻、豊臣秀吉や倭寇などにより国力が弱くなっていました。
最終的には、中国東北部にいた狩猟民族の女真族のヌルハチによって滅亡しました。

女真族は、別名を “満洲族” といいます。
女真とは、満洲語で彼ら自身の民族を意味する「ジュシェン」の当て字で、特に女性は関係ありません。

女真族の最も有名な特徴は、辮髪(べんぱつ)と呼ばれる男性の髪形です。

辮髪は、ラーメンマンの髪形です。
ドラマでも登場する特徴的な男性の髪形です。
もともと戦争用の兜をかぶるのに適した髪形として女真族で使われていました。

女真族は清朝建国後、他民族にも辮髪を強制する “薙髪令” を1644年に制定します。

中国人がラーメンマンの髪形をしていた時期は、中国4000年の歴史の中で清朝の265年だけだったのです。
中国人の一つのイメージという印象を持っている人もいると思いますが、実際には中国の長い歴史の中ではわずかな時期とも取れます。(265年÷4000年×100=6.6%)

短い時期でも印象に残る特徴的な髪形でした。

ドラマの時代になるまで(清朝について)

清朝の皇帝は12人いました。
清朝を建国したヌルハチからはじまり、映画「ラストエンペラー」の宣統帝が清朝最後の皇帝になります。

皇帝在位期間
1ヌルハチ(天命帝)1616年 – 1626年
2崇徳帝1627年 – 1643年
3順治帝1644年 – 1661年
4康熙帝1662年 – 1722年
5雍正帝1723年 – 1735年
6乾隆帝1736年 – 1795年「如懿伝」「瓔珞<エイラク>」の時代
7嘉慶帝1796年 – 1820年
8道光帝1821年 – 1850年
9咸豊帝1851年 – 1861年
10同治帝1862年 – 1874年
11光緒帝1875年 – 1908年
12宣統帝1908年 – 1912年
清朝の皇帝

この清朝の12人の皇帝の中で、重要な皇帝は、康熙帝、雍正帝、乾隆帝 の3人です。
順に簡単に説明します。

康熙帝(こうきてい)

康熙帝
生年:1654年~1722年
在位:1662年~1722年

康熙帝は、清朝4代目の皇帝です。
倹約家として知られ、明の時代に1日で使われた宮廷費用を、清は1年分にあてました。
中国史上はじめて台湾を征服しました。
勤勉家で西洋文化を積極的に取り入るなど、中国史上、今現代の中国人にも人気のある人物です。

雍正帝(ようせいてい)

雍正帝
生年:1678年~1735年
在位:1722年~1735年

雍正帝は、清朝5代目の皇帝です。
皇帝独裁体制を強化しました。
清朝は漢民族ではありませんでしたが、北京語を公用語とし、清朝の支配を批判する言説には厳しく弾圧しました。

乾隆帝(けんりゅうてい)

乾隆帝
生年:1711年~1796年
在位:1735年~1796年

乾隆帝は、清朝6代目の皇帝です。
ドラマ「如懿伝」や「瓔珞<エイラク>〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜」の時代の皇帝です。
「十全武功」と呼ばれる10回の外征を行い、ジュンガル部(現在の新疆ウイグル自治区)を制圧し清朝で最大の領土を保有しました。

ドラマ時期(乾隆帝の時代)

ドラマ『如懿伝』や『瓔珞<エイラク>』の時期は、乾隆帝の時代です。

乾隆帝
諱は弘暦(こうれき)
廟号は高宗(こうそう)
愛新覚羅 弘暦(爱新觉罗·弘历)(アイシンギョロ・フンリ)
(清朝の皇帝の苗字は、”愛新覚羅(アイシンギョロ)”といいます。女真族(満州族)のため少し変わった名前です))

ドラマ「如懿伝」や「瓔珞<エイラク>〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜」の時代の皇帝です。
世界史の授業では、現在の新疆ウイグル自治区を制圧し清朝の最盛期を築いた皇帝として紹介されます。
これだけ聞くと、乾隆帝は素晴らしい人物と思ってしまうかもしれません。

でもドラマではあまり素晴らしい人物としては描かれませんし、
中国人に聞いても、康熙帝のような人気はありません。

実際の乾隆帝はどのような人物だったのでしょうか?

乾隆帝の功績

乾隆帝の性格は、派手好きとして知られています。
倹約を目指し、減税をおこなった康熙帝とは逆の性格だったようです。

皇帝の偉大さを誇示するための事業を多く行う

乾隆帝の時代には、国のためではなく皇帝自身のために行ったのでは、と思われる事業が多くありました。
それらは皇帝の偉大さを誇示する目的があったようです。

乾隆帝の時代に実施した主な事業
・紫禁城の大規模な修築
・円明園、頤和園、北京の天壇(祈年殿)、熱河避暑山荘(離宮)などの造営
・巡幸(皇帝の旅行)の積極的な実施
 (60年の治世の間に南巡6回、西巡5回、東巡4回と合計15回実施)

10回の外征はウイグル遠征以外の7回は失敗

「十全武功」と呼ばれる10回の外征を行い、そのすべてに勝利し、現在のベトナムやミャンマーからも朝貢をもらいました。

乾隆帝の外征(十全武功)
1749年:苗族制圧
1754年:ジュンガル部(ウイグル)出征
1758年:ジュンガル部(ウイグル)への再征
1759年:ウイグル族征服
1769年:ビルマ(ミャンマー)遠征
1776年:苗族への再征
1788年:台湾の反乱の鎮定
1789年:ベトナムの服属
1790年:ネパールの征討
1792年:ネパールへの再征

この外征ですが、実は乾隆帝は一度も出陣していません。
乾隆帝は指示しただけでした。
しかも乾隆帝自身は10回とも勝ったと豪語しておりましたが、本当に勝利したといえる外征はジュンガル部(ウイグル)への3回の外征だけでした。

乾隆帝が本当に勝利した外征
1754年:ジュンガル部出征
1758年:ジュンガル部への再征
1759年:ウイグル族征服

収賄官僚ヘシェン(和珅)の重用

ドラマには、ほぼ登場しませんが、ヘシェンの存在も記載しておきます。

ヘシェン(和珅)は乾隆帝の母方の親戚にあたる人物でした。
乾隆帝は、容貌が父の貴妃(側室の一人)年氏に似ているなどの理由(諸説ある)で、ヘシェン(和珅)を重用しました。
乾隆帝が亡くなるまで、政治の決定権を与えられ続けたヘシェンは、莫大な収賄を行い、中国史上最大の富豪になりました。
当時、世界のGDPの3割あった清の国家予算15年分もの財産を保有していたそうです。

そんなトンデモない人物を重用し続けたなんて、乾隆帝は、本当にどうかしているとしか思えません。

乾隆帝の妻

清朝は日本の大奥と同様に一夫多妻制で、一人の皇帝が多くの妻を持っていました。

乾隆帝の妻で重要な人物は下記の3名です。
・孝賢純皇后、(フチャ氏、富察氏)
・継皇后(ナラ氏、那拉氏)
・孝儀純皇后(ウェイギャ氏、魏佳氏、令皇貴妃)

順に説明します。

孝賢純皇后(孝贤纯皇后)(フチャ氏、富察氏)

孝賢純皇后(孝贤纯皇后)(フチャ氏、富察氏)
生年:1712年~1748年
在位:1738年~1748年

孝賢純皇后(フチャ氏、富察氏)は、乾隆帝の最初の正室になった人物です。
子どもは、4名産みましたが、1人以外は夭逝しました。

長女(夭逝)
三女:固倫和敬公主
二男:端慧皇太子永璉(夭逝)
七男:哲親王永琮(夭逝)

継皇后(ナラ氏、那拉氏)

継皇后(ナラ氏、那拉氏)
皇后那拉氏(清高宗第二任皇后)
清高宗继皇后那拉氏
生年:1718年~1766年
在位:1750年~1766年

継皇后(ナラ氏、那拉氏)は、「如懿伝」の主人公のモデルになった人物です。
孝賢純皇后(フチャ氏、富察氏)が亡くなった後、正室になりました。
江南巡幸における杭州の視察の際、当時の満洲族としては禁忌であった断髪をしたことで皇帝及び皇太后への呪詛とみなされ(断髪をした理由は諸説あり)、皇后を事実上廃された。

子どもは3名産み1名以外は夭逝しました。
十二男:貝勒永璂
五女(夭逝)
十三男:永璟(夭逝)

孝儀純皇后(ウェイギャ氏、魏佳氏、令皇貴妃)

孝儀純皇后(ウェイギャ氏、魏佳氏、令皇貴妃)
生年:1727年~1775年

ドラマ『瓔珞<エイラク>』の主人公のモデルになった人物です。
孝儀純皇后(ウェイギャ氏、魏佳氏、令皇貴妃)は、乾隆帝に最も気に入られていたといわれる人物です。

産まれは、満洲正黄旗の包衣(内務府所属の漢人)という低い身分でした。
しかし、その容姿と賢さで、皇貴妃まで上り詰めました。

18歳で魏貴人になり、同年令嬪になりました。乾隆13年(1748年)に令妃となりました。
乾隆帝の妃のうちで最も多い4男2女をもうけ、2番目の皇后ナラ氏が廃位された後、皇貴妃に進みました。
1775年に病気で亡くなった後、1773年に息子の永琰が皇太子に立てられたことで、その生母として孝儀皇后と追贈されました。

七女:固倫和静公主
十四男:永璐(夭逝)
九女:和碩和恪公主
十五男:永琰(嘉慶帝)
十六男(夭逝)
十七男:慶親王永璘

ドラマの後の時期(清朝末期~)

嘉慶帝の時代

1796年乾隆帝が亡くなってから、1912年に清朝滅亡するまで、清朝は116年も続きました。

乾隆帝の死後、皇帝になったのはエイラクの息子の一人永琰でした。

永琰は、嘉慶帝となり、乾隆帝が重用していたヘシェン(収賄で富豪になった人物)はすぐに誅殺されました。

清朝の滅亡

1820年に嘉慶帝が亡くなった後、1840年にアヘン戦争が起こります。

清朝はこのアヘン戦争を境に下り坂になります。
アロー戦争、日清戦争、日露戦争など戦争も多く起こり、1911年の辛亥革命により清朝は滅びました。

映画「ラストエンペラー」(皇帝は宣統帝)の時代です。
清朝が終わることで、ラーメンマンの髪形(辮髪)も終焉を迎え、現代の中国ではラーメンマンを見ることはできなくなってしまいました。

タイトルとURLをコピーしました